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目黒区の明治時代が面白い!教育と産業で変わった街

こんにちは!『ローカログ』目黒エリア担当ライターのあきこです♪ 娘と一緒に目黒の街を歩いていると、レトロな建物や古い地名に出会うことがありますよね。そんなとき、「この街の明治時代ってどんな感じだったのかな?」なんて思いませんか?

わたしも最近、近所を散歩中にふと気になって調べてみたんです。すると、目黒区の明治時代って本当に興味深い歴史がたくさんあるんですよ!今日はそんな目黒区の明治時代について、一緒に探ってみましょう。

目次

明治維新で大きく変わった目黒の風景

江戸時代には行楽地として栄えていた目黒でしたが、明治時代になると街の性格がガラリと変わりました。特に注目したいのが、教育の拠点として発展していったことです。

1874年(明治7年)に八雲小学校が設置されたのは、まさに明治の新しい時代の始まりを象徴する出来事でした。「富国強兵」という国の方針のもと、教育制度も大きく変わっていく中で、目黒もその波に乗っていったんですね。

また、この頃から工業化の波も押し寄せます。1896年(明治29年)にはビール工場が開場し、目黒は産業の街としての顔も見せ始めました。江戸時代の行楽地から、近代的な産業都市への転換期だったんです。

駒場周辺の大きな変化

駒場エリアでは、江戸時代末期の1867年に駒場野一揆という出来事が起こりました。幕府が軍事訓練場を作ろうとしたことに住民が反発した事件で、まさに江戸から明治への時代の転換点を表す出来事だったんです。

そして明治時代になると、この地域は騎兵連隊などの兵営地区として栄えました。軍事的な拠点として重要な役割を果たしていたんですね。

教育と学術の中心地として発展

明治時代の目黒で特筆すべきは、教育機関の充実です。1886年(明治19年)には東京農林学校が設立されました。これは駒場農学校と東京山林学校が合併してできたもので、現在の東京大学農学部の前身にあたります。

また、日本獣医学校も目黒にありました。これは現在、武蔵野市にある日本獣医生命科学大学の前身で、当時から動物に関する専門教育の拠点だったんです。

こうした学術機関の集積は、目黒を「学びの街」として位置づけていく重要な要素となりました。明治時代から続く教育への意識の高さが、現在の目黒区の文教地区としてのイメージにつながっているんですよ。

交通網の発達と街の変貌

目黒区の明治時代を語る上で欠かせないのが、鉄道の開通です。1885年(明治18年)にJR目黒駅が開業しました。ただし、目黒駅の所在地は実は品川区上大崎で、これは当時の地理的な事情によるものなんです。

鉄道の開通は、目黒の街にとって革命的な変化をもたらしました。それまで農村地帯だった場所が、徐々に住宅地としての魅力を持ち始めたんです。交通の便が良くなることで、都心で働く人たちが住む場所として注目されるようになりました。

目黒不動尊の賑わいは続いていた

明治時代に入っても、目黒不動尊の人気は衰えませんでした。行人坂から目黒不動尊入口まで、相変わらず料理屋や土産物屋が立ち並んでいたんです。「角伊勢」や「大国屋」といった老舗は、栗飯や筍飯で評判を呼び、明治時代以降も繁盛していました。

江戸時代からの名物「目黒飴」も健在で、参拝客のお土産として愛され続けていました。伝統と新しい時代の融合が、明治時代の目黒の特徴だったんですね。

産業の発展と工業化の進展

明治時代の目黒は、工業地域としても発展していきました。明治政府の近代化政策により、官民の工場が展開する工業地域へと変貌を遂げたんです。

特に注目したいのが、1887年(明治20年)に設立された日本麦酒醸造会社です。これは現在のサッポロビールの前身で、目黒が日本のビール産業発展に重要な役割を果たしていたことを物語っています。

こうした産業の発展は、目黒に多くの働き手を呼び寄せ、人口増加の要因にもなりました。農業中心だった街が、工業と住宅が混在する近代的な街へと変わっていく過程が見て取れます。

農業から住宅地への転換期

明治時代の目黒では、まだ農業も盛んでした。特に有名だったのが孟宗竹の栽培です。目黒式タケノコ栽培法というものまで開発され、江戸時代から続く筍の名産地としての地位を保っていました。

目黒川、立会川、呑川の各流域には水田地帯が広がっていて、のどかな田園風景が広がっていたんです。でも、工業化や宅地化の波により、こうした農業地帯は徐々に減少していきました。

水車も多く活躍していて、農業や工業の動力源として重要な役割を果たしていました。川の流れを利用した昔ながらの技術が、明治時代にも生きていたんですね。

地域の変化を示す地名の変遷

明治時代の地名を見ると、当時の街の様子がよくわかります。古地図には「荏原郡目黒村」という表記が見られ、まだ村としての性格が強かったことがうかがえます。

用水路や小川も多く存在していて、谷戸前川のような小さな川が農業用水や生活用水として利用されていました。現在は暗渠になっている川も多く、街の変遷を物語る貴重な痕跡となっています。

明治後期から大正へ向けた変化の兆し

明治時代後期になると、目黒はさらなる変化の時期を迎えます。工業化が進む一方で、住宅地としての魅力も高まっていきました。特に鉄道沿線では、宅地開発の動きが活発になっていたんです。

この時期の変化は、大正時代の関東大震災後の急激な発展につながる重要な準備期間だったと言えるでしょう。明治時代に築かれた教育、産業、交通の基盤が、後の目黒区発展の土台となったんです。

目黒の街を歩いていると、明治時代の面影を感じる場所がまだまだたくさんありますよね。古い石碑や建物、曲がりくねった道などに、当時の人々の暮らしの足跡を見つけることができます。

現代に続く明治時代の遺産

目黒区の明治時代を振り返ってみると、現在の街の特徴の多くがこの時代に形作られたことがわかります。教育への意識の高さ、工業と住宅の調和、交通の便の良さなど、今の目黒の魅力の原点がここにあるんです。

目黒不動尊をはじめとする歴史ある場所は、江戸時代から明治時代を経て現在まで、多くの人々に愛され続けています。変化の中にも変わらない価値があるって、素敵なことですよね。

みなさんも、目黒の街を歩くときには、ぜひ明治時代の歴史に思いを馳せてみてください。きっと新しい発見があるはずです♪

「歴史とは過去と現在との対話である。」- E.H.カー

毎日の暮らしの中にある歴史の重みを感じながら、今日という日も大切に過ごしていきたいですね。目黒の明治時代から続く「毎日が発見」の精神で、また新しい街の魅力を見つけていきましょう!

投稿時のリサーチ結果に基づいて記事を作成していますが、最新情報は公式サイトも必ずご確認ください

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