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目黒区を走った路面電車の歴史

こんにちは!『ローカログ』目黒エリア担当のライター・あきこです♪今日も目黒区での新しい発見がありそうな予感がして、ワクワクしています!みなさん、目黒区で路面電車が走っていたって知っていますか?今では想像もつかないかもしれませんが、この街にも確かに路面電車が走っていた時代があったんです。

最近、娘と散歩していたときに「電車道」と呼ばれる道を見つけて、「どうしてこんな名前なの?」と聞かれたことがきっかけで、目黒区の路面電車について調べてみることにしました。調べていくうちに、本当に興味深い歴史がたくさん見つかって、思わず夢中になっちゃったんです!

目次

目黒区を駆け抜けた「玉電」の物語

目黒区で路面電車といえば、やっぱり「玉電」こと玉川電気鉄道のことなんです。正式には東急玉川線と呼ばれていたこの路面電車は、1907年(明治40年)に開業してから1969年(昭和44年)まで、なんと62年間も地域の人々の足として活躍していました。

玉電は渋谷から二子玉川までを結んでいて、その途中で目黒区内も通っていたんです。国道246号線の上を堂々と走る姿は、きっと迫力があったでしょうね!実は、多摩川の砂利を都心に運ぶのが主な目的だったため「ジャリ電」という愛称でも親しまれていました

目黒区内を走っていた路線たち

目黒区内では、特に中目黒線という路線が走っていました。この中目黒線は1927年(昭和2年)に開通して、渋谷橋から中目黒まで結んでいたんです。ただし、現在の東急東横線中目黒駅とは別の場所で、山手通りと駒沢通りの交差点付近にあったそうです。

中目黒線は1969年10月26日に廃止されるまで、42年間も地域の人々の大切な交通手段でした。駒沢通りの上を走る路面電車の姿を想像すると、なんだかロマンチックですよね♪

今も残る「電車道」の秘密

目黒区内には、今でも「電車道」と呼ばれる道があるんです。権之助坂の下、目黒川に架かる新橋のたもとから不動前方面へ向かって伸びる、幅員18メートルもある立派な道なのですが、全長はわずか600メートル足らず。

実はこの道、戦前に東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が前身なんです。昭和19年に既存の路線が廃止になったため、戦後にそのまま道路として生まれ変わりました

昔は柳並木で「柳通り」とも呼ばれていましたが、現在はハナミズキの並木道になっています。地元の人たちの間では今でも「電車道」として親しまれているそうです。この名前を聞くだけで、なんだかほっこりしませんか?

玉電の発展と地域への貢献

砂利輸送から始まった歴史

玉電の歴史は1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道による二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを目的として始まりました。関東大震災後の復興では、木材に代わる建築材料であるコンクリートの原料となる砂利の運搬に大きく貢献したんです。

最初は砂利輸送がメインでしたが、その後は旅客誘致のための玉川遊園地やプールの開設、電力供給事業、住宅地の分譲など、沿線開発にも力を入れていました。これによって世田谷・玉川地域の発展に大きく貢献したんですね。

路線の拡張と発展

玉川電気鉄道は順調に路線を拡張していきました。1925年(大正14年)には三軒茶屋・下高井戸間に下高井戸線(後の世田谷線)を開業。そして1927年(昭和2年)には、目黒区にも関係する中目黒線と溝ノ口線を開業させました。

1938年(昭和13年)には東急の前身である東京横浜電鉄に合併されて「東急玉川線」となり、戦後も地元の足として親しまれ続けました。地域の人々にとって、まさに生活に欠かせない存在だったんです

時代の変化と路面電車の終焉

自動車社会の到来

戦後、日本が高度経済成長期に入ると、自動車の交通量が急激に増加しました。国道246号線の渋滞が激しくなり、路面電車の運行にも大きな影響が出るようになったんです。道路の真ん中を走る路面電車と自動車の共存が、だんだん難しくなってきたんですね。

1959年には警視庁から軌道敷内への自動車乗り入れが実施され、路面電車を取り巻く環境はますます厳しくなっていきました。時代の波には勝てなかったということでしょうか…。

別れの時

ついに1969年5月10日、玉川線の渋谷〜二子玉川園間と砧線全線が廃止となり、国道246号線上を走る路面電車が姿を消しました。中目黒線も同年10月26日に廃止され、目黒区から路面電車の姿が完全に消えたのです。

廃止となる最後の3日間には「さようなら玉電」花電車が運行され、沿道には別れを惜しむたくさんの人々で人垣ができたそうです。きっと多くの人が涙を流したことでしょう。わたしも想像するだけで胸がキュンとしちゃいます。

玉電の遺産と現在への影響

世田谷線として生き続ける一部区間

玉川線の三軒茶屋〜下高井戸間については、全区間が専用軌道で代替バスを運行できる平行道路がなかったため存続することになりました。5月11日から世田谷線と名前を変えて、車両の色もそれまでのクリームと緑のツートンから緑一色に変更。車庫も大橋から上町へ移して、新たなスタートを切ったんです。

現在も走り続けている世田谷線は、玉電の遺産を受け継ぐ貴重な存在。目黒区からは少し離れていますが、玉電の面影を感じられる路線として、鉄道ファンや地域の人々に愛され続けています♪

地下鉄として生まれ変わった本線

一方、廃止された渋谷〜二子玉川園間は1977年に新玉川線として地下に生まれ変わりました。1978年には営団半蔵門線との相互直通運転が開始され、都心から渋谷を経由して田園都市線に直通する大動脈となったんです。

さらに2003年には半蔵門線と東武鉄道との相互直通運転も開始され、埼玉県の南栗橋と神奈川県の中央林間まで、1都2県をまたぐ大路線網に発展を遂げています。玉電の精神は、形を変えて現在も生き続けているんですね!

目黒区に残る路面電車の痕跡を探してみよう

街歩きで発見できる歴史の足跡

目黒区内を散歩していると、路面電車時代の痕跡を見つけることができます。先ほどご紹介した「電車道」はその代表例ですが、他にも道路の幅員が急に広くなっている場所や、微妙に道が曲がっている箇所などに、昔の軌道の名残を感じることができるんです。

池尻大橋周辺には玉電の大橋停留場跡(旧東京急行電鉄玉川線遺構)も残っていて、歴史好きの方にはたまらないスポットになっています。目黒天空庭園の近くにあるので、お散歩がてら訪れてみるのもいいですね♪

地域の記憶を大切にする意味

路面電車が消えてから50年以上が経ちましたが、地元の人々の間では今でも「電車道」という呼び方が残っているのが素敵だなと思います。これって、地域の歴史や記憶を大切にしている証拠ですよね。

現在の目黒区は、JR山手線、東急目黒線、東京メトロ南北線、都営三田線の4路線が乗り入れる交通の要衝として発展していますが、かつてはもっと身近で親しみやすい路面電車が走っていたんだと思うと、なんだか感慨深いものがあります。

路面電車から学ぶ街づくりのヒント

人にやさしい交通システム

路面電車の魅力って、なんといってもバリアフリーで乗り降りしやすいところですよね。地下に潜ったり高架に上がったりする必要がなく、街レベルで利用できるのは本当に便利だったと思います。高齢者や子ども連れの方にとっても、きっと使いやすい交通手段だったでしょう。

最近では、世界各地で路面電車が見直されているって聞きます。環境にやさしくて、街の景観にも馴染みやすい路面電車は、これからの街づくりにとって重要なヒントを与えてくれそうです♪

地域コミュニティを育む役割

路面電車があった時代って、きっと今よりも地域の結びつきが強かったんじゃないでしょうか。同じ電車に乗り合わせた人同士で自然と会話が生まれたり、停留場で近所の人と立ち話したり…。そんな温かい交流があったんだろうなと想像しちゃいます。

交通手段は単なる移動の道具ではなく、地域コミュニティを育む大切な場所でもあったんですね。これは現在の街づくりでも忘れてはいけない視点だと思います。

未来に向けて

目黒区の路面電車について調べていて、改めて感じたのは「街には必ず歴史がある」ということです。今わたしたちが当たり前のように歩いている道にも、昔の人々の生活や想いが刻まれているんですよね。

娘には「昔ここに電車が通っていたんだよ」と教えてあげたら、目をキラキラさせて「本当?見てみたかった!」と言っていました。子どもたちにとっても、街の歴史を知ることは大切な学びになりそうです。

これからも目黒区で暮らしていく中で、街の歴史に敬意を払いながら、新しい発見を楽しんでいきたいと思います。みなさんも、お散歩の途中で「電車道」を見つけたら、ちょっとだけ立ち止まって、昔ここを走っていた路面電車のことを思い出してもらえたら嬉しいです♪

「過去を知らない者は、未来を語る資格はない。」
― ウィンストン・チャーチル

今日も目黒区での新しい発見ができて、とっても充実した一日でした!街の歴史を知ると、いつもの風景がちょっと違って見えるから不思議ですよね。みなさんもぜひ、身近な街の歴史を調べてみてください。きっと素敵な発見が待っていますよ♪

投稿時のリサーチ結果に基づいて記事を作成していますが、最新情報は公式サイトも必ずご確認ください

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