こんにちは!『ローカログ』世田谷エリア担当ライターのすーちゃんです。皆さんは普段歩いている世田谷区の街並みが、どんな歴史を刻んできたかご存知ですか?今回は世田谷区の歴史について、古代から現代まで詳しく掘り下げてみたいと思います。
ボクが住んでいるこの世田谷区、実は3万年も前から人が住んでいたって知っていましたか?そんな長い歴史を持つ街が、どのように発展して今の姿になったのか、一緒に見ていきましょう♪
古代から中世まで:世田谷区の始まり
縄文時代から古墳時代の痕跡
世田谷区の歴史は驚くほど古く、約3万年前の旧石器時代から人々が暮らしていたとされています。縄文時代には多数の貝塚が存在し、当時の人々の生活の様子を物語っています。
古墳時代になると、この地域には何らかの旧王朝や豪族の存在が疑われています。野毛大塚古墳、稲荷塚古墳、第六天塚古墳、玉川台古墳群など、現在も公園として保存されている古墳群が点在しているんです。
特に注目すべきは下大塚古墳で、古墳時代の武器などが数多く発見されており、2016年には区が所蔵管理するものとしては初めて国の重要文化財に指定されました。これらの遺跡は、古来より武蔵国多磨郡、荏原郡に属していた当時の様子を今に伝えています。
室町時代の発展と楽市の始まり
室町時代に入ると、後北条氏が世田谷に新たな宿場である世田谷新宿を設けました。同時に楽市も開かれ、これが形を変えて現在のボロ市として続いているんです!400年以上も続く伝統って、本当にすごいですよね。
江戸時代:彦根藩世田谷領の時代
大場家による代官統治
江戸時代の世田谷は「彦根藩世田谷領」として統治されていました。戦国時代にこの地域の領主だった吉良氏の家臣であった大場家が代官を務めることになったんです。
大場氏は平安時代末期の武将である大庭景親の子孫で、室町時代に吉良氏の重臣として三河から世田谷に移住してきました。1633年に一帯が彦根藩世田谷領となった際、大場六兵衛盛長と大場市之丞吉隆が世田谷代官に任命されました。
現在も残る世田谷代官屋敷の建物は、七代目の大場六兵衛盛政が1737年に建て替えたもので、当時の建築様式を今に伝える貴重な文化財となっています。
江戸時代の観光地としての世田谷
江戸時代の世田谷は、豪徳寺、世田谷八幡宮(現在の世田谷八幡宮)、森巖寺(旧北澤粟島社)などが『江戸名所図会』にも取り上げられる観光名所として知られていました。風光明媚な景勝地として多くの人々に愛されていたんですね。
江戸時代末期には、現在の世田谷区域内に42の村々が存在していましたが、御府内(江戸の市域・城下町)には含まれていませんでした。
明治時代から大正時代:近代化の波
世田谷代官制度の終焉と学校教育の始まり
明治維新により、約200年続いた世田谷代官制度が廃止されました。最後の代官は大場代官信親でした。明治政府は近代国家建設を目指し、従来の寺子屋を公立学校に切り替える政策を進めました。
斎藤関西という人物が近隣の有力者を説得して太子堂学舎を開設し、1872年の学制発布により公立の荏原小学校となりました。これが現在の若林小学校の前身なんです。
鉄道開通と住宅地開発の始まり
1907年、現在の区域内初の鉄道として玉川電気鉄道(後の東急玉川線)が開通しました。当初は多摩川から東京の中心部に砂利を運ぶための鉄道で、人々からは「砂利電」と呼ばれていました。
鉄道の整備に伴い住宅地の開発も進み、1912~1913年に開発された新町住宅地が先駆けとなりました。現在の桜新町駅南側に作られたこの住宅地は、当時としては画期的な民間分譲住宅地だったんです。
関東大震災による大きな変化
1923年の関東大震災は世田谷の街を大きく変えました。震災により罹災した避難民が世田谷に身を寄せ、そのまま定住する人も多く、人口が急増したんです。
この時期に特徴的な街が形成されました。下町各所から寺院が移転した烏山寺町、牛込から移転してきた学校とその分譲住宅地で形成された成城町、下谷から移転してきた商店からなる太子堂の下の谷商店街など、関東大震災を機に現在の世田谷区の特色ある街並みの基礎が築かれました。
昭和初期:世田谷区の誕生と発展
世田谷区の成立
1932年10月1日、東京市の区域拡張により世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村の4つの町村が合併して世田谷区が誕生しました。発足当時の人口は133,249人でした。
1936年には北多摩郡の砧村と千歳村が追加編入され、現在の区域が完成しました。この時期に行われた玉川全円耕地整理事業は、1924年の組合設立準備から1954年の事業完了まで30年をかけて実施され、現在の世田谷区面積の約4分の1を占める玉川地域の基盤整備が行われました。
鉄道網の完成
大正末期から昭和初期にかけて、世田谷線、小田急線、目蒲線(現目黒線)、東横線、大井町線が相次いで開通し、1933年の井の頭線開通で、ほぼ今日の区内鉄道網が完成しました。これにより世田谷区は交通の便が格段に向上し、住宅地としての魅力が高まったんです。
戦時中から戦後復興まで
戦争の影響と空襲被害
太平洋戦争が激しくなると、東京は空襲を受けるようになりました。区内の子どもたちは長野県や新潟県に疎開し、1945年5月24日と25日には世田谷区が最大規模の爆撃を受け、区役所庁舎も消失してしまいました。
8月15日の終戦後、軍事施設の跡地は戦災者のための住まいや保育園、学校として活用されました。昭和女子大学や東京農業大学をはじめ、多くの教育施設が建設されたのもこの時期です。
戦後復興と急激な都市化
戦後の経済復興とともに、暮らしも次第に向上していきました。家庭には三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及し、区内にも住宅や団地が建設されて人口が急増しました。
1946年5月12日には「米よこせ区民大会」が開催され、大会後には皇居へのデモ行進が行われるなど、戦後の混乱期を象徴する出来事もありました。
高度経済成長期:東京オリンピックと発展
1964年東京オリンピックの開催
1964年の東京オリンピック開催は、世田谷区にとって大きな転機となりました。馬事公苑では馬術競技が、駒沢オリンピック公園総合運動場ではサッカーやレスリングなどの競技が行われました。
区内を横断する甲州街道はマラソンコースとなり、世田谷区は世界中の注目を集めました。オリンピックに向けた道路整備も進められ、現在の都市基盤の礎が築かれたんです。
都市インフラの整備
1963年には環状七号線が開通し、区内の交通網がさらに充実しました。1960年には世田谷区役所第一庁舎が竣工し、1969年には第二庁舎も完成して、行政機能の拡充が図られました。
現代の世田谷区:地域密着型行政の実現
独自の地域行政システム
1991年より、住民にとって身近な行政を行うため、世田谷区独自の取り組みとして5つの総合支所を設けた地域に根差したまちづくりがスタートしました。これにより、約90万人という大きな人口を抱える区でも、きめ細かな行政サービスが提供できるようになったんです。
文化財の保護と活用
1968年には区の鳥・花・木が決定され、1981年には区歌「緑と風と翼」が制定されました。2005年には21世紀せたがやのうた「おーい せたがや」も制定され、区民の郷土愛を育む取り組みが続けられています。
1995年には防災行政無線が整備され、災害時の情報伝達体制も強化されました。
東京2020オリンピック・パラリンピック
新型コロナウイルス感染症の影響で延期となった東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会では、再び馬事公苑で馬術競技が開催されました。57年ぶりに世田谷区が世界のスポーツの舞台となったんです!
現在の世田谷区:緑豊かな住宅都市として
現在の世田谷区は約90万人が住む東京23区最大の人口を誇る区となっています。緑化の推進や環境保全など、潤いのあるまちづくりに取り組み、住みやすい街として多くの人々に愛され続けています。
国分寺崖線の自然環境を活かした公園や、農家が開設する市民農園など、都市部でありながら自然と触れ合える環境が整っているのも世田谷区の魅力の一つです。
3万年という長い歴史を持つ世田谷区、皆さんはどの時代に一番興味を持ちましたか?ボクたちが普段何気なく歩いている街並みには、こんなにも豊かな歴史が刻まれているんですね。思い立ったが吉日、今度の休日には歴史散歩に出かけてみませんか?
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」- カール・マルクス
皆さんも世田谷区の歴史を知ることで、この街への愛着がさらに深まったのではないでしょうか。過去を知ることで未来がより明るく見えてきますね♪

















