こんにちは!『ローカログ』目黒エリア担当ライターのあきこです♪ 毎日娘と一緒に目黒の街を歩いていると、ふと「この街はいつからこんな素敵な住宅街になったんだろう?」って思うことありませんか。わたしも長年住んでいながら、実は目黒区の成り立ちについてはあやふやだったんです。
そこで今回は、みなさんと一緒に目黒区がどのように生まれ、発展してきたのかを探ってみたいと思います!これを読んだら、きっと普段歩いている街並みが違って見えるはずですよ。
目黒区誕生前の時代〜二つの町が合体するまで
実は現在の目黒区は、昭和7年(1932年)10月1日に誕生したばかりで、まだ90年ちょっとという比較的新しい区なんです。目黒区が生まれる前は、目黒町と碑衾町(ひぶすままち)という二つの町に分かれていました。碑衾町って、読み方も珍しいですよね?
この「碑衾」という名前は、実は昭和6年に「朝日町」に改名する予定だったそうです。確かに「碑衾」は読み間違いや書き間違いが多かったから、公募で新しい町名を決めたのですが、市郡合併の話が現実味を帯びてきて、結局立ち消えになってしまったんです。もし改名されていたら、今頃「朝日区」なんて名前だったかもしれませんね!
江戸時代から明治へ〜村から町への歩み
さらに時代をさかのぼってみると、現在の目黒区域は武蔵国荏原郡に属していて、三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村、碑文谷村、衾村という6つの村がありました。明治22年(1889年)の市制・町村制施行で、三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が合併して「目黒村」になり、碑文谷村と衾村が合併して「碑衾村」が誕生しました。
その後、目黒村は大正11年(1922年)に目黒町となり、碑衾村は昭和2年(1927年)に碑衾町になったんです。こう見ると、段階的に統合が進んでいったことがよく分かりますね。
昭和7年、運命の合併〜目黒区誕生の瞬間
さて、いよいよ目黒区誕生のクライマックスです!昭和7年の市郡合併は、東京府知事の藤沼庄平氏の強い決断によって実現しました。この合併で東京市は35区、人口497万人の世界第2位の大都市になったんです。すごいスケールですよね!
目黒区は目黒町と碑衾町が合併して誕生し、人口は10万8,208人でした。目黒警察署の管轄区域でもあったことから、「目黒区」という名称に決まったそうです。区役所は当初、中目黒正覚寺山門横にあった目黒町役場をそのまま使用していましたが、碑衾町の人たちが「区の中央に区役所を」と陳情した結果、昭和11年に中央町二丁目(現在の地)に移転しました。
二つの町の違いと統合の課題
合併当初は、旧目黒町と旧碑衞町で都市化の進行度合いに違いがありました。例えば水道料金ひとつとっても、旧目黒町民は市郡合併と同時に1ヵ月10立方メートル当たり1円50銭から93銭に値下げになったのに対し、旧碑衾町民は昭和10年まで1円80銭を支払っていたんです。
ゴミ処理についても、旧目黒町は合併と同時に市営になったのに、旧碑衾町に市営清掃が実施されたのは昭和9年でした。こうした格差を解消することが、当時の区政の最大の課題だったそうです。今では想像できませんが、同じ区内でもサービスに差があったなんて驚きですよね。
鉄道開通が街を変えた〜住宅地として大発展
目黒区の発展を語る上で欠かせないのが、鉄道の開通です。昭和2年(1927年)に東横線が開通し、中目黒駅が開業しました。それまで田畑が広がっていた場所に、大正12年(1923年)には目黒銀座通りが開通していたこともあり、住宅街として爆発的に発展していきました。
特に面白いのが駅名の変遷です。住宅地としてのイメージアップのために学校誘致が熱心に行われ、それに合わせて駅名も変更されました。
- 碑文谷駅→青山師範駅→第一師範駅→現在の学芸大学駅
- 柿ノ木坂駅→府立高校駅→都立高校駅→現在の都立大学駅
- 九品仏駅→現在の自由が丘駅
学芸大学も都立大学も現在は移転していますが、文教地区というイメージは今も残っていて、目黒区の人気に一役買っているんです。特に自由が丘の名称変更は街のイメージを大きく変えて、女性に人気の街として発展していきました。
「目黒」という地名の謎に迫る
ところで、「目黒」という地名の由来って気になりませんか?実はこれ、諸説あって定説がないんです!主な説をご紹介しますね。
主な地名由来説
- 馬畔説:「め」は馬、「くろ」は畔道を意味し、昔この辺りに馬の牧場があったから
- 地形説:「め」はくぼ地や谷、「くろ」は嶺を意味し、目黒川と谷を囲む地形から
- 馬の毛色説:優れた黒馬がいたため、愛驪(めぐろ)が地名になった
- 目黒不動説:五色不動の目黒不動尊があることから
鎌倉時代の記録「吾妻鏡」には武蔵武士目黒彌五郎の名前が出てくるので、「目黒」という地名は少なくとも800年以上前からあったことが分かります。どの説が正しいかは分からないけれど、それぞれにロマンがありますよね♪
戦時中の苦難と戦後復興
目黒区も戦時中は大変な苦労を経験しました。昭和19年10月には国民学校の児童が山梨県と福島県に集団疎開し、昭和20年8月15日の終戦までに区の約30パーセントが空襲で焼き払われました。想像するだけで胸が痛みます。
でも戦後は住民が一丸となって復興に取り組み、現在の美しい住宅街へと生まれ変わっていったんです。今わたしたちが快適に暮らせているのも、この時代の人々の努力があったからこそなんですね。感謝の気持ちを忘れちゃいけないなって思います。
現代の目黒区へ〜自治権の拡充
戦後、昭和22年には35区が現在の23区となり、地方自治法によって特別区の地位を得て、初めて区長が公選で選ばれるようになりました。でもこれは長続きせず、昭和27年には都知事の同意を得て区議会が選任する間接選挙に変わってしまいました。
各区は自治権拡充運動を続け、ようやく昭和50年4月1日に再び区長公選制が実現しました。こうして現在の目黒区の体制が整ったんです。民主主義って、当たり前のようで実は多くの人の努力で勝ち取られたものなんですね。
目黒区の形の秘密
最後に、目黒区の南北に細長い独特な形についてお話ししましょう。これは合併前の歴史の名残なんです!南側が旧目黒町、北側が旧碑衾町で、境界線は現在の学芸大学駅の少し南側、目黒郵便局の横を通る道でした。
今度お散歩するとき、この境界線を意識して歩いてみてください。街の雰囲気の微妙な違いを感じられるかもしれませんよ♪わたしも娘と一緒に「ここから向こうは昔碑衾町だったんだよ」なんて話しながら歩くのが楽しみになりました。
まとめ〜歴史を知ると街がもっと愛おしく
いかがでしたか?目黒区の成り立ちを知ると、普段歩いている街並みがより愛おしく感じられませんか?昭和7年の誕生から90年余り、多くの人々の努力と工夫によって今の素敵な目黒区が作られてきたんです。
鉄道の開通、戦時中の苦難、戦後復興、そして自治権の拡充。一つひとつの出来事が積み重なって、今のわたしたちの暮らしがあるんですね。歴史って遠い昔の話のように感じがちですが、実は身近な街の中に生きているんだなってしみじみ思います。
「歴史は繰り返すが、歴史から学ぶ者は未来を創る」
― 作者不詳
今日から目黒の街を歩くとき、きっと新しい発見があるはずです。毎日が発見!これからも一緒に目黒区の魅力を探っていきましょうね♪


















