こんにちは!『ローカログ』目黒エリア担当ライターのあきこです♪ 毎日娘と一緒に目黒の街を歩いていると、ふと「この街ってどんな歴史があるんだろう?」って思うことありませんか? 今日は目黒区の歴史について、古代から現代まで一緒に辿ってみましょう!
目黒区って実は、とっても奥深い歴史を持つ街なんです。江戸時代の行楽地から始まって、関東大震災を経て現代の住宅街へと変貌を遂げた、まさに時代の流れを体現している場所なんですよ。
古代から中世へ~目黒の原点を探る
目黒区の歴史を語る上で欠かせないのが、旧石器時代から続く長い歴史です。東山貝塚遺跡は23区内でも有数の規模を誇る貝塚で、縄文時代の人々の暮らしぶりを現代に伝えています。
古代になると、この地域は武蔵国荏原郡に属していました。9世紀頃には大鳥神社や目黒不動、法眼寺が建立され、宗教的な拠点としても発展していったんです。中世には鎌倉道の幹線が整備され、交通の要所としての役割も果たしていました。
横山党目黒氏の荘園「菅刈荘」があったとされ、現在の目黒高校近辺が居館だったという伝承も残っているんですよ! 歴史のロマンを感じますよね♪
江戸時代の一大行楽地として栄華を極める
江戸時代の目黒は、なんと一大行楽地として大変な賑わいを見せていました。中心となっていたのは目黒不動尊で、目黒駅から目黒川に下る行人坂から目黒不動尊入口まで、料理屋や土産物屋がぎっしりと並んでいたそうです。
名物は「目黒飴」と呼ばれた飴で、参拝客のお土産として大人気だったんだとか。目黒不動尊は富くじでも有名で、湯島天神、谷中の感応寺とともに「江戸の三富」と称されていました。
また、江戸時代の目黒は孟宗竹の産地としても知られていて、現在の目黒区南部から品川区境で採れる筍は江戸の名産品だったんです。春になると筍狩りを楽しむ人々で賑わっていたそうですよ!
将軍家光も愛した「爺々が茶屋」
江戸初期、このあたりは狩猟場として知られていました。坂上の眺望の良いところに1軒の茶屋があり、三代将軍家光は遊猟の帰りにこの茶屋で休憩していたそうです。家光は茶屋の主人・彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、店の名前が「爺々が茶屋」になったという微笑ましいエピソードも残っています。
明治から大正へ~近代化の波
明治時代に入ると、目黒の街は大きく変化し始めます。1874年には八雲小学校が設置され、教育の拠点としても発展していきました。1896年にはビール工場が開場し、産業の発展も見られるようになります。
1907年には目黒競馬場が開設され、この地域の新たな名所となりました。馬場の1周が1マイル、総面積64,580坪という規模で、3階建ての観覧スタンドを備えた本格的な競馬場だったんです。
目黒競馬場では1932年に現在の「日本ダービー」である東京優駿大競走が開催され、あふれんばかりの観客が詰めかけました。しかし、周辺の宅地化が進むにつれて用地不足や風紀の問題が生じ、1933年に府中へ移転することになったんです。
関東大震災と鉄道開通が街を変えた
目黒区の現在の姿を決定づけたのは、1923年の関東大震災でした。東京の西側エリアは被害が少なかったため、被災した東側地域からの人口移動が始まったんです。
同じ年には目蒲線(現在の東急目黒線)が開通し、原町、月光原、大岡山、洗足の人口が一気に増加しました。さらに1927年の東横線開通は決定的な影響を与え、鉄道開通からの2年間は毎日約5軒というペースで住宅が増えていったそうです!
この急激な発展ぶりには本当に驚かされますよね。現在の目黒区の基盤は、この時代に築かれたと言っても過言ではありません。
駅名変更で文教地区のイメージアップ
昭和初期の宅地開発では、住宅地としてのイメージアップのために学校の誘致が熱心に行われ、それに伴って駅名も変更されました。
- 碑文谷駅 → 青山師範駅 → 第一師範駅 → 学芸大学駅
- 柿ノ木坂駅 → 府立高校駅 → 都立高校駅 → 都立大学駅
- 九品仏駅 → 自由が丘駅
学芸大学、都立大学ともに現在は移転していますが、文教地区というイメージは今も残っていて、目黒区の人気に一役買っているんですよ♪
昭和7年、目黒区の誕生
急速な発展を受けて、1932年(昭和7年)には目黒町と碑衾町が合併し、ついに目黒区が誕生しました! 目黒区の南北に細長い形は、南側が旧目黒町、北側が旧碑衾町だった名残なんです。
境界線は現在の学芸大学駅の少し南側、目黒郵便局の横を通る道でした。今でもその境界線を意識して歩いてみると、街の雰囲気の違いを感じられるかもしれませんね。
戦時中の苦難と戦後復興
昭和19年10月には国民学校の児童が山梨県と福島県に集団疎開し、昭和20年8月15日の終戦までに区の約30パーセントが焼き払われるという苦しい体験をしました。
戦後は復興に向けて住民一丸となって取り組み、現在の美しい住宅街へと生まれ変わっていったんです。この時代の人々の努力があったからこそ、今のわたしたちが快適に暮らせているんですね。
現代の目黒区へ~文化と利便性の融合
1964年の地下鉄日比谷線開通により、中目黒駅周辺にはマンションやアパートが林立し、商店も増え続けました。これが現在の目黒区の都市的な姿の原点となっています。
目黒川沿いの桜並木や、おしゃれなカフェが立ち並ぶ自由が丘、アートギャラリーが点在する中目黒など、現代の目黒区は文化と利便性を兼ね備えた魅力的な街として発展を続けています。
数十年前まで目黒川で水遊びや魚捕り、友禅流しが行われていたなんて、今では想像もつきませんよね! でも、そんな自然豊かな時代から現在の洗練された街並みまで、目黒区は常に時代とともに歩んできたんです。
目黒の地名の由来って知ってる?
ところで、みなさんは「目黒」という地名の由来をご存知ですか? 実は諸説あるんですが、馬に関係する「馬畔(めぐろ)」から来ているという説と、「目黒不動」から来ているという説が有力なんです。
目黒不動尊は808年開山の天台宗の寺院で、江戸時代には徳川家の庇護を受けて発展しました。江戸三大不動、江戸五色不動のひとつとして、庶民の信仰を集めてきた歴史があります。
どちらの説が正しいにせよ、目黒という地名には深い歴史と文化が込められているんですね♪
まとめ~歴史を感じながら街歩きを楽しもう
目黒区の歴史を辿ってみると、古代の貝塚から江戸時代の行楽地、明治の競馬場、そして現代の住宅街まで、本当に多彩な顔を持つ街だということがわかります。
今度目黒の街を歩くときは、ぜひこの歴史を思い出してみてください。きっと普段見慣れた風景も、違って見えてくるはずです。歴史を知ることで、街への愛着もより深まりますよね!
わたしも娘と一緒に、これからも目黒区の歴史を感じながら街歩きを楽しんでいきたいと思います。みなさんも、毎日が発見の連続になるような、そんな目黒ライフを送ってくださいね♪
「歴史は繰り返すが、同じことは二度と起こらない」- マーク・トウェイン
過去を知ることで未来への道筋が見えてくる。そんな気持ちで、今日も目黒の街を大切に歩んでいきましょう!


















