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世田谷区の明治時代を徹底解説!軍隊の街から住宅地へ大変貌

こんにちは!『ローカログ』世田谷エリア担当ライターのすーちゃんです。皆さんは世田谷区の明治時代がどんな時代だったか知っていますか?実は、ボクたちが住んでいる世田谷区は明治時代に劇的な変化を遂げた、とっても興味深い歴史を持っているんです。今回は世田谷区の明治時代について、詳しく掘り下げてお話ししていきますね♪

目次

明治維新と世田谷代官の終焉

1868年、江戸城が開城され、江戸が東京と改められた激動の年に、世田谷にも大きな変化が訪れました。なんと、江戸時代から続いていた世田谷代官職が廃止されたんです!最後の世田谷代官は大場信親という人物でした。

約200年以上も続いた世田谷代官制度の終了は、まさに時代の転換点でした。これまで代官によって治められていた世田谷の村々は、新しい明治政府の統治下に入ることになったんです。1871年の廃藩置県後、世田谷はようやく東京府の一部となりました。

教育制度の導入と幼学舎の設立

明治政府が力を入れたのが教育制度の整備でした。世田谷でも教育の近代化が進み、1872年に学制が発布されると、各地で学校設立の動きが活発になったんです。

特に注目すべきは、斎藤関西という人物が近隣の有力者を説得して太子堂に幼学舎を開いたことです。この幼学舎は後に公立の江原小学校となり、現在の若林小学校の前身となりました。また、桜小学校の前身となる幼学舎も設立され、世田谷の教育の基盤がこの時代に築かれたんです。

軍事施設の移転と「軍隊の街」への変貌

明治時代の世田谷を語る上で欠かせないのが、軍事施設の移転です。1891年、目黒村駒場から世田谷村池尻にかけての地域に騎兵第一大隊が移転してきました。これをきっかけに、三宿や太子堂周辺に軍施設がどんどん増えていったんです。

都心部にあった陸軍用地が手狭になったことから、郊外への移転が相次いだんですね。現在の世田谷区内には練兵場など多くの陸軍施設が設置され、多くの軍人や訓練兵が集まるようになりました。日清戦争後には駒沢練兵場も置かれ、世田谷は完全に「軍隊の街」としての性格を強めていきました。

この軍事施設の移転は、地域経済にも大きな影響を与えました。軍人を相手とする各種サービス業が発展し、付近の農家も軍施設を相手に野菜の販売や下肥の入手などの恩恵を受けたんです。池尻、太子堂、三軒茶屋周辺には兵隊相手の商店が現れ、商業地としても発展していきました。

松陰神社の建立と歴史的意義

1882年、吉田松陰の教えを受けた人々によって松陰神社が築かれました。この神社の境内に建っている石灯籠には、松陰と縁のある人物によって建てられたものがあり、そのうちの一つはなんと初代総理大臣の伊藤博文によって建てられたものなんです!

松陰神社の建立は、世田谷が単なる軍事拠点ではなく、教育や文化の面でも重要な意味を持つ場所であることを示していました。吉田松陰の思想が世田谷の地に根付いたことは、地域の精神的な支柱となったんです。

交通革命:鉄道開発の進展

明治後期以降、世田谷の発展を決定づけたのが鉄道開発でした。1907年に玉電(玉川電鉄・路面電車)が開通し、これが現在の東急田園都市線の原型となったんです。多摩川から東京の中心部に砂利を運ぶために開通したこの鉄道は、人々から「砂利電」と呼ばれて親しまれました。

その後も鉄道開発は続き、1913年の京王線、1925年の東急世田谷線、1926年の東急東横線、1927年の小田急小田原線と次々に開業していきました。これらの鉄道開発により、沿線に新しい街が生まれ、世田谷の都市化が一気に進んだんです。

住宅地・行楽地としての発展

鉄道が整備されると、世田谷では住宅地の開発も進みました。その先駆けとなったのが、現在の桜新町駅の南側に作られた新町住宅地です。これは世田谷における計画的住宅地開発の始まりでした。

二子玉川を中心とする玉川村には料亭や旅館が生まれ、玉電の開業と同時に「玉川遊園地」が開業しました。世田谷は保養地としての性格も強めていったんです。また、眺望が良い国分寺崖線沿いの高台(岡本、瀬田、野毛)には実業家や政治家などの別荘が建てられ、高級住宅地としての基盤が築かれました。

三軒茶屋と大山道の歴史

世田谷区の明治時代を語る上で、三軒茶屋の存在も忘れてはいけません。江戸時代から「大山道」の往来で賑わっていた三軒茶屋は、明治時代にも重要な交通の要所でした。

三軒茶屋の地名は「角屋」「信楽」「田中屋」という3軒の茶屋が「大山道」沿いにあったことに由来します。「信楽」があった場所は現在はカラオケ店となっており、その前の駅入口の脇には「大山道」の道標が保存されています。「田中屋」は当時とほぼ同じ場所で「田中屋陶苑」として営業を続けているんです。

関東大震災と人口急増

世田谷の人口が急増するきっかけとなったのが、1923年の関東大震災でした。都心部で多くの建物が破壊されたことから郊外への人口流出が進み、世田谷にも多くの人が移り住んできたんです。

震災をきっかけとして東京の中心部にあった寺院が次々と世田谷に移転し、1955年までに26の寺院からなる烏山寺町が形成されました。これは世田谷の宗教的・文化的な景観を大きく変える出来事でした。

玉川村の耕地整理事業

当時の豊田正治村長を中心に、玉川村では住みよい町にするために畑や道路などの耕地整理が行われました。この大規模な事業は終了するまでにおよそ30年もかかる大プロジェクトでした。

この耕地整理事業により、玉川村は計画的で美しい街並みを持つ地域へと変貌を遂げました。現在の世田谷区の整然とした住宅地の基盤は、この時代の先見性ある取り組みによって築かれたんです。

明治時代が現代世田谷に与えた影響

世田谷区の明治時代は、まさに激動の時代でした。江戸時代の農村地帯から、軍事拠点、そして住宅地・行楽地へと、めまぐるしく変化していく様子がよく分かりますよね。

特に鉄道開発と住宅地開発は、現在の世田谷区の骨格を作り上げました。また、教育制度の導入や文化施設の充実も、世田谷が文教地区として発展する基盤となったんです。軍事施設の存在は一時的でしたが、それが商業の発展を促し、地域経済の活性化につながりました。

皆さんも世田谷区を歩いているときに、明治時代の面影を探してみてください。きっと新しい発見があるはずです!思い立ったが吉日、歴史散歩に出かけてみませんか?

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」- マーク・トウェイン

過去を知ることで、未来への道筋が見えてくるものです。世田谷区の豊かな歴史を胸に、今日も前向きに歩んでいきましょう♪

投稿時のリサーチ結果に基づいて記事を作成していますが、最新情報は公式サイトも必ずご確認ください

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