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世田谷区の牧場の歴史!四谷軒牧場と三井牧場の知られざる物語

こんにちは、皆さん!「ローカログ」世田谷エリア担当ライターのすーちゃんです。今日は天気も良くて気持ちいいですね。ふと思ったんですが、皆さんは世田谷区に牧場があったことをご存知ですか?実は東京23区内の最後の牧場が世田谷区にあったんですよ!今回はそんな世田谷区の牧場の歴史について掘り下げてみたいと思います。

目次

東京23区最後の牧場「四谷軒牧場」の歴史

世田谷区赤堤にあった「四谷軒牧場」は、東京23区内で最後まで残っていた牧場として知られています。この牧場の歴史は明治20年(1887年)に新宿・四谷で創業したことから始まります。その名前の由来も四谷にあったことから「四谷軒牧場」と名付けられたんですね。

昭和5年(1930年)に四谷から世田谷区赤堤に移転してきました。当時の世田谷区は今とは全く違い、のどかな田園風景が広がる場所だったんです。約4000坪という広大な敷地に、最盛期には約120頭もの乳牛を飼育していたそうです。

赤堤通りに面したこの牧場は、地元の人々にとって特別な存在でした。搾りたての新鮮な牛乳を販売していたので、近所の人たちは毎日その美味しい牛乳を楽しみにしていたんですよ。ボクも子どもの頃に牧場で飲む搾りたての牛乳の味を思い出しますが、あの味は本当に格別でした!

牧場の周辺環境と地域との関わり

四谷軒牧場があった頃の赤堤周辺は、昭和30年代まで畑や雑木林に囲まれた自然豊かな環境でした。周囲の雑木林ではカブトムシやクワガタが採れ、子どもたちの遊び場としても親しまれていたそうです。

地域の子どもたちにとって、この牧場は単なる風景ではなく、生きた教育の場でもありました。牛に触れ合うことができる貴重な場所だったんですね。ある方の思い出話によると、幼い頃に牧場に通い、お気に入りの牛に名前をつけて呼びかけると、その牛が寄ってきたという心温まるエピソードもあります。

戦時中には、この牧場から約200m北に日本の高射砲で撃墜されたB29が墜落するという出来事もあったそうです。時代の変化を見守ってきた場所だったんですね。

閉鎖に至るまでの経緯

しかし、昭和40年代に入ると世田谷区の宅地化が急速に進み、牧場を取り巻く環境も大きく変わっていきました。新しく引っ越してきた住民からの苦情や、周囲の道路の交通量増加による搾乳量の減少などが原因で、昭和60年(1985年)1月、ついに四谷軒牧場は閉鎖されることになったのです

閉鎖の際、牧場主は長年支えてくれた地域住民への感謝を込めて「お別れ餅つき大会」を開催しました。これは1985年1月20日に行われ、多くの地域住民が参加したそうです。牧場主の温かい人柄が伝わるエピソードですね。

男性/60代/地元住民 「四谷軒牧場が閉鎖されるとき、本当に寂しい気持ちでいっぱいでした。子どもの頃から慣れ親しんだ風景が消えていくのを見るのは辛かったです。でも、最後の餅つき大会は地域の人たちと一緒に牧場との思い出を分かち合える貴重な機会でした。」

三井高井戸牧場の歴史

世田谷区には四谷軒牧場だけでなく、「三井高井戸牧場」という牧場もありました。大正7年(1918年)、三井合名が東京に住む三井家の自家用牛乳確保のため、東京府荏原郡松沢村(現在の世田谷区桜上水)に設立したものです。

この牧場は大正3年(1914年)に三井合名が東京府荏原郡松沢村の茶畑と丘陵5万m²を購入し、翌年さらに5万m²を追加購入して作られました。東京ドーム2倍強の広さとなる10万m²の敷地に、乳質の優秀なジャージー種の乳牛10頭を英国から輸入して飼育していたそうです。

当時の藁葺屋根の農家が点在する村の中で、見慣れない種類の牛がいる牧場と洋風の牧舎は異彩を放っていたことでしょう。この牧舎を建設したのは鹿島建設だったというのも興味深い事実です。

戦後の三井牧場の発展と閉鎖

戦後、三井牧場では乳牛を乳の多く出るホルスタイン種に改め、昭和23年(1948年)10月からは牛乳を一般にも販売するようになりました。搾乳から瓶詰めまでできる機械設備を備え、厚生省から衛生モデルケース指定も受けた牛乳は、その品質の良さから「特別牛乳」と呼ばれ、都内の病院や外国人向けに販売されていました。

最盛期には年間12万リットルもの牛乳を生産していましたが、昭和37年(1962年)に牧場は閉鎖されてしまいます。その2年後の昭和39年(1964年)、東京オリンピックの開催と相前後して、日本住宅公団が跡地を住宅団地として開発し、桜上水団地が誕生しました。

現在の桜上水団地は建設から約60年が経ち、桜とケヤキの大木に囲まれた緑豊かな分譲団地となっています。かつて牧場だった面影を残す部分はほとんどありませんが、この地の歴史を知ると、また違った見方ができますね。

牧場跡地の現在

四谷軒牧場の跡地は現在、マンションや民家が建ち並ぶ住宅街となっています。しかし、その歴史を忘れないよう、マンションの敷地内には「牛魂碑」と名付けられた大きな記念碑が建てられています。この碑は東京都23区で最後に残された牧場の跡地を示す貴重なモニュメントとなっています。

赤堤通り交差点の近く、通りの北側に位置するこの場所を訪れると、かつてここに牧場があったことを実感できるでしょう。また、牧場の隣にあった空き地は、かつては牛の糞処理場として使われていましたが、後にとうもろこし畑へと変わり、さらに高級マンションへと姿を変えていきました

三井高井戸牧場の跡地は、現在の桜上水団地や日大のアメフト場、野球場などになっています。都市化が進む中で、かつての牧場の面影を探すのは難しくなっていますが、地域の歴史を知ることで、街の見方が変わってくるものですね。

失われた風景への思い

昭和30年代から40年代にかけて急速に進んだ世田谷区の宅地開発により、のどかな田園風景や自然豊かな環境は次第に失われていきました。カブトムシやクワガタが採れる雑木林、大きなカエルがいる畑、そして牛と触れ合える牧場。そんな環境で育った子どもたちは、自然との共生を肌で感じながら成長していったのでしょう。

現代の子どもたちにとって、牛を平気で触れる経験はなかなか得られないものになっています。都市化が進む中で失われた自然体験の機会を、どのように取り戻していくかは現代社会の課題かもしれません。

  • 自然と触れ合う機会の減少
  • 都市開発と地域の歴史保存のバランス
  • 子どもたちの成長環境の変化

これらの問題を考えると、かつて世田谷区にあった牧場の存在は、単なる懐かしい思い出以上の意味を持っているように感じます。

まとめ:世田谷区の牧場が教えてくれること

世田谷区にあった四谷軒牧場と三井高井戸牧場の歴史は、東京の都市化の過程を映し出す鏡のようです。明治・大正・昭和と時代が移り変わる中で、のどかな田園風景から住宅街へと変わっていった世田谷区の姿は、日本の近代化の縮図とも言えるでしょう。

牧場があった時代を知る人々の記憶の中には、搾りたての牛乳の味や、牛との触れ合いの温かさが今も生き続けています。そして「牛魂碑」のような形で、その歴史は次の世代にも伝えられているのです。

ボクたちが住む街の歴史を知ることは、その街をより深く理解し、愛することにつながります。世田谷区の牧場の歴史を通じて、都市と自然の共生、地域コミュニティの大切さについて考えるきっかけになれば嬉しいです。

「過去を忘れた民族に未来はない」 – サンドロ・ペルティーニ

皆さん、今日も素敵な一日をお過ごしください!思い立ったが吉日、明日は実際に牛魂碑を見に行ってみようかな。それではまた次回の「ローカログ」でお会いしましょう!

投稿時のリサーチ結果に基づいて記事を作成していますが、最新情報は公式サイトも必ずご確認ください

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